2014年8月28日木曜日

卒業生

やかましいほど書いているが、今年、七年ぶりに東京で舞台をやる。
俳優仲間の永倉先輩や中山峻ちゃんらと一年前くらいから話し合い進めて来た。

何より先に考えたのは、京都造形芸術大学の教え子たちを参加させたいという事だった。
まず最初に声をかえたのは、俳優コースの卒業生、二宮君だった。

彼は俳優コースの卒業生でもちろん今も俳優なのだが、学生時代は俳優の他に音響スタッフとしても活躍していて、ニノの愛称でひっぱりだこで、そのセンスは抜群だった。
しかし、その一年前までは不登校に沈み、誰とも会話をしないような男だったし、実際に大学にも来ていなかった。

ニノは職場に疲れ果てたサラリーマンのようにいつも人の目を避けていた。
そんなある日、たまたまだがニノは僕の授業を履修していて一緒に舞台をやることになった。
僕の記憶では、彼が本格的に取り組んだ芝居はそれが初めてだったと思う。
……すでに大学生活の半分以上が過ぎていた。

これまでクラスメートが授業や授業外公演で腕を磨く中、授業もろくに出て来ないニノは、かなり遅れをとっていた。
しかし、役を付けたからには何とか見せられるまでにしなければならなかった。
彼の猛特訓が続いた。
夜遅くまで、たった一人でニノは稽古をした。
さらに僕も付き合い、声を荒げた。

不登校に近かったニノが必死に食らいついて来た。
死んだ魚のようだった彼の目が、次第に力を漲らせていた。
ニノは皆との遅れも取り戻し、最後までやり遂げた。

さらに次の舞台では音響スタッフを名乗り出て、見事なセンスを見せ始めると、他の学生たちはそのセンスに舌を巻き、自分の公演にスタッフとして依頼してきた。

それからというもの、ニノは不登校じゃ無くなった。
その後、一緒に東北復興支援公演「ゴジラ」にも参加し、恐るべき強行スケジュールを共に乗り切った。
そして3、4年生で驚く程の単位を取得して巻き返した挙げ句、見事に卒業していった……。

ニノは信頼できる男の一人だ。
今回は音響スタッフで頼んでいるが、次は役者で頼まなければ……。




※次回も卒業生を紹介します。お楽しみに!






2014年8月24日日曜日

講義

明日のキャリア演習の講義の為に京都へ移動中。

明日の時間割を見て、3時限の講義だったのかと慌てふためく。
しかも、そんなにも受講生がいるのかと頭を抱える。

まず最初の80分は喋り倒す。残りの80分×2は成り行きだ。

テーマは「生きる」
僕らは皆生きている。
幸せになる為だ。

その価値観は誰もが違う。でも、みんな幸せになる為に生まれてきたのだ。

宮本輝のエッセイにもあった。
人は様々な人々と惹かれあい出会って行く。
だが、その出会いは不思議と共通する価値観で繋がると…。
ヤクザな人はいつも荒っぽい人間と。
心のきれいな人は、いつも空を見上げるような無垢な人と。
駆け引きばかりすると人は、詐欺師のような人たちと。…僕らは必ずお互いで導き合う。

仕事もそうだ。
ひとりでコツコツ働く時計職人は
人見知りだからその仕事を選ぶわけじゃない。
時計職人は滅多に普通の人にサジを投げない科学者のような人なのだ。
だから彼の元には当然古いものを大切にする辛抱強い人たちが大切な時計を持って現れる。

僕らは出会いの中で生きている。
明日も明後日も、誰かと出会う。
幸せになるためにだ。
だからもしも自分の未来が不安になっても決して嘆いたり悲しむことは無い。時間は必ずいつか出会いを導く。

僕もそうだぞ。
50歳を目前に新たな出会いを求めて挑戦し始めたんだよ。

七年ぶりの稽古で今日は仲間達と歌を唄った。大きな声で歌ってみた。
楽しかったよ…。

2014年8月19日火曜日

人質

物騒な世の中だ。

シリアで日本人が拉致された。
YouTubeにはいくつか動画がアップされてて、ユカワハルナという男がイスラム国の兵士に俺は医者だと言ったり、カメラマンだと言ってみたり、最後には俺は兵士じゃない、兵士じゃないと繰り返す、かなり緊張感あるものが載っていた。

今朝のニュースじゃ『拉致したイスラム国は、敵対するムジャヒディン軍に捕虜交換を要求するようだ』とあったが、これに安倍首相がどう出るかが見ものである…。
ちなみに小泉首相はテロに屈せず人質を見殺しにした。

さてさて、こんな社会派な記事を載せるつもりは毛頭ない。
この話題を出したのは、僕もフィリピンで拉致された経験があるからだ。

本当に怖かった。
ユカワハルナさんはどっかの会社の社長のようできっと助かると思うのだ、僕は極めて普通の、貧乏映画俳優だった。(今も貧乏には変わりない)

拉致されたのは、撮影に来ていた僕と俳優仲間の江原修ちゃんだった。

酒場の帰り。
ミリタリーポリスを名乗る男に職務質問され、パスポートを携帯してないのを注意されてポリスステーションまでだとタクシーに乗せられた。
なぜタクシーなのかと、複数の男達も乗り込んだところでおかしく思えばいいものを、僕らはまんまと拉致された。

車の中でお前らはシャブをやってるはずだと決めつけられ、所持品を調べられた。

奴らの目的だった金は二人とも使い果たしていた。
一人の男が銃を出してタガログ語で口調を荒げた。
金は無い、本当に無い、僕らは何度も奴らに言った。

別の男がホテルに金は有るかと聞いてきた。
奴らはこのまま釈放出来ずにむしろ困っているふうだった。

「ホテルにも金がない」
と僕が答えた。すると慌てて修ちゃんが否定した。
「Yes、Yes! 水上さん、持ってるって言わなきゃダメですよぉ〜」
銃口は変わりばんこに僕らに向いた。

ホテルの前に到着すると、僕を人質に修ちゃん一人が金を取りに部屋に戻った。
その間、僕は再度所持金を調べられた。
口は渇き、呼吸は心臓が高鳴ってうまく出来ない感じだった。

逃げようと思えば逃げられたかもしれないが、確実に撃たれると思った。

早く来てくれ…走れメロスの友達の方な気分で修ちゃんが戻らないんじゃ無いかとも疑った。
妄想が幾つも広がり、10分ほどが、1時間くらいにも感じていた。

修ちゃんがホテルのエントランスから顔を出した。
涙が出そうになった。

と、同時に偽ポリス達が大声を張り上げた。
見ると、修ちゃんの後ろから民間セキュリティがショットガンを構えて修ちゃんを追い越して走ってきた。

男が叫び、タクシーが急発進した。
セキュリティの銃声が数発鳴った。

細い道をタクシーは疾走した。
僕は拉致されたまま何処かで殺されると確信した。
フィリピンではその一週間前も日本人旅行者がナイフで殺されていた。
犯人はこいつらかもしれなかった…。

助手席の男が僕を両端で挟む男達に声をかけた。男達は一斉に振り返った。
僕も何故か振り返った。
真っ暗な山路をヘッドライトが近付いて来る。
カーチェイスが始まった。
そして…走り続けた先は行き止まりだった。

偽ポリスが銃を手に車を降りた。

後ろの車から降りたのは修ちゃんだった。
涙が溢れた。
しかもプロデューサーも降りて来て、財布を掲げた。

「いくら欲しい」
プロデューサーが叫んだ。
まるで映画のようだった。
偽ポリスが答えた。
「一人、10万だ」

これで助かったと思った。
僕は両手を下ろして歩き出そうとした。
だが、プロデューサーが言った。
「エクスペンシブ。もっと負けろ」
銃口が再び僕に向いた。
言葉は何も出なかった…。

結局、偽ポリスとプロデューサーの長い交渉は、一人あたり2万円の身代金で落ち着いて、僕は長い拉致から解放された。

数日後、解放されてもフィリピンにいる間じゅう僕の心は複雑で、特にそのプロデューサーとはかなりよそよそしい関係になっていった。

拉致されるのは懲り懲りだ…。


2014年8月17日日曜日

今日のお昼

今日のお昼は、行列に並んで深川めし。

なかなかのもの、ご馳走様でした…。



2014年8月16日土曜日

豪雨

京都がひどい豪雨だったと今ほど知った。

御所付近の道路は冠水し、通行止めになったとニュースは報じていた。

僕は東京で稽古中だが、大学では高橋伴明監督作品が撮影中だ。

大丈夫だっただろうか…。


東京では僕の他に何人もの教え子達が本番前の稽古に励んでいるし、京都では伴明組をはじめ、たくさんのゼミや卒制作品が動いている。

皆さん、くれぐれも身体に気を付け頑張りましょうね。
成功を心よりお祈りしてます!



写真はホテル近くの隅田川を走る船。






2014年8月14日木曜日

只今、絶賛稽古中!

本日、稽古三日目。

この芝居にはいくつかのシーンがある。
そして、その一つ一つにタイトルをつけている。
それは全て映画のタイトルだ。

シーン1「男たちの挽歌」監督 ジョン・ウー
シーン2「卒業」監督 マイク・ニコルズ
シーン3「許されざる者」監督 クリント・イーストウッド
シーン4「生きものの記録」監督 黒澤 明
シーン5「しとやかな獣」監督 川島雄三
シーン6「君に読む物語」監督 ニック・カサヴェテス
シーン7「タクシードライバー」監督 マーティン・スコセッシ

そしてエピローグが付け足され、8場構成で物語は作られている。
書き始めてからシーンタイトルが決まった箇所もあれば、予めこんな映画のシーンになればと考えたシーンもある。

どれも映画とは全く繋がりはないのだが、何となくタイトルと芝居とが通じるように作ったつもりだ。

僕は自分の作る芝居がいつも映画になればいいと考えている。
今まで何作も作ったが実現されたものは無い。

今度こそは……と、ポジティブに考える、まだ稽古三日目の今日である。



2014年8月10日日曜日

MANHOLE THEATER


Manholeとは、地下に張り巡らされた下水道と地上を繋ぐ穴の事だ。
その語源はMan()Hole()を組み合わせた言葉だそうだが、地上への道は重い鉄の蓋で仕切られている。

地下をずっと這い続けてきた我々が、今ようやく陽の光を浴びる為にその重い鉄の蓋をこじ開ける。
マンホールはどこに通じているかは我々にもわからない。

寒々しい真冬の都会では見た事もないようなネオンに惑わされ、自分たちの行き先を見失った。
ある時は、満月と太陽を見間違った。

そんな事を繰り返しながら、我々は再び地下に潜った。次のマンホールを目指してだ。
我々にルールは無い。次に見る地上の光は何色だって構わない。
とにかく今はどこかにある重い鉄の蓋をこじ開けようと、水浸しの地下道を歩き続けている。

イタリアには『真実の口』という彫刻がある。
映画「ローマの休日」にも出て来た有名な彫刻だ。
実はそれも古代ローマ時代のマンホールの蓋だったという。
だが古代ローマ人はそのマンホールの蓋をひっぺがし、芸術的作品に作り変えた。

我々もいつかそうなりたいと願っている。
『真実』と『虚構』を繋ぐマンホールの蓋を地上に掲げ、これこそがMANHOLE THEATERのシンボルだと……。

チケットのご予約はこちらで受け付けています。
manhole.theater@gmail.com

すでに土日は予約が入り始めていますのでお急ぎ下さい。
1)お名前(フルネーム)
2)日時(例:9/11 14:00の回)
3)枚数
4)返信用アドレス(PCメールを拒否しないもの)
5)僕のお友達の方は水上扱いと書いて下さい。

宜しくお願い致します!


ジャニーズじゃなくて、台風のことです。


嵐ファンの方は速やかに戻って下さい。


窓外は横殴りの雨。
裏山の樹々は揺れ、轟々と鳴っている。

予定が狂った。
外に出られない。
東京までの高速道路は二カ所も通行止め。

……困った。

でもいいや。
ゆっくりのんびり生きるのだ。

……明日はきっと晴れるだろう。

2014年8月7日木曜日

俳優

僕の役者人生は演劇から始まった。

若手役者がすべからくそうであるように、僕もぜんぜん食えなかった。


そこで映像に転向するしかなくなって、先輩の現場に連れてってもらっては必死に映像の芝居を勉強した。独学でだ。

芝居は舞台も映像も同じでしょ、なんて思うかもしれないが、それは大きな間違いでドラマや映画をやると分かり始める。
いや、違うという事だけが分かり始めて理解できるのはずっと後だ。

映画をやって怒られ、舞台をやって違うと言われ、そしてまた映画をやって自分の芝居に幻滅する。

その繰り返しを経て、もしかするとこういう事かとその芝居の違いを使い分け始めた。
でも、若手俳優たちには僕と同じ道を歩ませるわけにはいかないから、ここ最近その違いを大学では教えている。

今回のMANHOLE THEATER 「タクシードライバー」には大学の教え子たちが2名ばかり出演する。
二人が大人たちとどれだけ勝負できるかは僕の中でも大きな楽しみになっている……。









2014年8月4日月曜日

シンクロニシティ

大都会の東京で偶然の出会いがあった。

映画学科の技術職員だった※ ※君と東京駅のホームで会った。

彼は東京公演の帰りだった。
僕も舞台公演の顔合わせの帰りだった。

ユングは何かの巡り合わせは、さらに意味を持っていくと伝えている。
そして、それ(共時性)を意識することでその感覚は鋭く研ぎ澄まされていくとも説いている。

僕のジンクスでは、こんな偶然があった日は、もう二回くらい同じような事が続くのだ…。

2014年8月2日土曜日

殺陣公演

若き俳優たちの殺陣発表公演があった。
指導は東映太秦の俳優 峰蘭太郎先生である。

約四ヶ月の稽古期間で良くぞここまで育ったものだと感心した。

習い事の多くは基礎練習を終えたところで山を迎える。

その山を越え、谷を渡ればさらに壁がある。

だが、その試練の連続が面白いのだ。
習い事は容易くてはならない。
難しいから続けていられる…。

習い事の道理なのだ…。

2014年8月1日金曜日

再会


こんな僕でも俳優養成所に通っていた。


唐さんのところへ行く前、まだ未成年の頃だった。


19歳の生意気盛りの僕はいくつも年上の仲間たちと一緒に酒を飲み、タバコを吸い、そして大人の仲間に入れてもらっていた。

今とは違って引っ越せばすぐに電話番号がわからなくなるような時代だったから、当然いつのまにか疎遠になった。


あれから30年、facebookで繋がって右端の山口雅義さんが大阪で舞台公演をやるというのを聞きつけた。

「子供のためのシェイクスピア」と題していたが、大人も楽しめるとても面白い舞台だった。

出演者たちは皆さん芸達者で大人も子供も声を出して笑ったりドキドキしながらあっという間に時間は過ぎた。

当時、芝居ってなんだろうなんて今ほど考えていただろうか。
食えなくて泣きそうになりながらいた二十代、芝居や映画に明け暮れ、がむしゃらを美学にしていた三十代、それでも芸の深さを知りたくて躍起になった40代、そして50歳を目前にしたこの再会で僕はまだまだ頑張らねばならない事を痛感した。

山口さんも芝居を必死でやり続けてきた一人である。
その証だろうか、芝居には30年間の生き様がしっかりと刻まれていた……。

いつかまた会える日が来るのだろう。
そしてその時も思うのかもしれない。

まだまだ僕は頑張らねばならないと……。