2014年10月19日日曜日

舞台「光のない。」

京都芸術劇場春秋座で東日本大震災と原発事故を題材にした、「光のない。」地点公演を観た。

作者は、ミヒャエル・ハネケ監督「ピアニスト」の原作者であり、後にノーベル文学賞を受賞したエルフリーデ・イェリネクである。

演出は、「地点」代表で文化庁芸術祭新人賞ほか、数々の受賞歴を持つ三浦基で、彼はチェーホフ四大戯曲の連続公演に取り組み絶賛を浴びた日本演劇界ではホープとも言える存在だ。

なかんずく、この「光のない。」は、いとうせいこう がツイッターでこう呟いている。

『現代演劇の頂点。悲惨で混乱し美しく隣接し切断される言葉と身振りとセットと照明。大震災と原発事故を目の前にして書かれたセリフの切実さ。ラスト近く不意に涙が出た。明日もある。飛行機で、新幹線で、地下鉄で、駆けつけるべき』

ここまで呟かれたのでは観に行かない道理は無い。
当日券発売の寸前に電話すると、まだチケットはあるとのことで、慌てて劇場まで自転車を飛ばして行った。

冒頭から繰り返されるセリフの反復に戸惑わされる。
しかも、それは言葉の概念をぶちこわす、いや、概念自体を破壊するかの様な隙間の無い進行に、ああ、これは音楽的な言葉が生み出すロンド(回旋律)であったのかと気付かされる。

役者の動きもどちらかと言えば舞踏にも似て、それは散文詩と組み合わさって次第に臨場感を増して行く。

時々、明確になる言葉からは震災に関連する言葉が出て、次第にぞくぞくもするのだがロンドが巡れば物語性に行き着く前に再び降り出しに戻って行く。

この演劇が何をいわんとしているかを考えてみた。深読みだ。いや、深読みしかできない。

まるで海の中を想像させるような舞台美術、遠くから響く様な人々のうめき声、そしてモノトーンを連想させる微かな光……。

もしかすると、一枚の写真のようなものを突きつけ、記憶させたかったのではないかと感じてしまう。

『僕らはどこからも脱出できない暗闇に、いま封じ込められていることを。そしてこれが21世紀に起きた悲劇なのだと……』