2014年12月29日月曜日

百円の恋

昨日、新井浩文君に会った。
ちょうど彼の最新作「百円の恋」を見たばっかりだったので、当然その話になった。

この作品の中の元ボクサー新井は、彼の今までの出演作の中で一番好きだった。

朴訥として田舎者風で決して運に恵まれたことのないような新井は、(役名を忘れたので新井でいきます)役者新井の演技の幅と言うより、力の抜けた芝居が本人の生まれながらの個性を無理なく出させて、僕ら観客には十分な説得力を与えてしまったのだと思う。

新井君の話は少し置いといて、本題に入る。
出来るだけネタバレにならないように努めるが、この作品はバレたところで映画の面白みが欠けるものじゃあない。

冒頭、リングライトを思わせる光の中から一本の紐が降りてくる。いや、降りてくるのではなくカメラが移動しているだけだが、それが部屋の蛍光灯から吊るされた電源の紐であることに気づかされ、そこにはだらしない風亭の安藤サクラが甥っ子とゲームして遊んでいる。

働きもせず、親に面倒を見てもらいながらずっとこんな暮らしを続けてきた。
そんな女が家を追い出され、生きる為に百円ショップで働き出して、さらに新井と出会って恋をする。
だが、すぐに新井は浮気に走り自分は孤独の中でボクシングに目覚め、何もなかった女が、何かを掴むために必死にもがき、少しずつ成長していく物語だ。

なんだそれだけの話かと思うだろうか。
それだけの話に、安藤サクラと新井浩文が全力を注ぎ、映画をカタルシスへと導いたのは、役者もさることながら、武監督の執拗な演出が報われた結果だろう。
さらに彼ら二人がその過酷な演出にも耐え抜き、乗り越えてしまった結果が観客には大きな想像を与えてしまったのだろう。

話を冒頭に戻せば、天井のリングライトから降りてくる紐は、芥川龍之介を借りると「蜘蛛の糸」で、精神的地獄にいる安藤サクラは、やがてそれに気づき、しがみつき、這い登っていくまでを新井や家族との交流を串刺しに、まるで回想のように構成されている。

彼女の結末が救われたかまでは、語りはしないが、見るものは自分の中に置き換えながら多くの感情を重ねたに違いない。

久しぶりに見る人間臭い映画に、ふと武監督の顔までを思い出した。

武監督はかつて何度も映画で一緒に働いた。
熱血で賢く自分を簡単には曲げない強さがあった。
この作品は僕が見た武監督の最高傑作になったと思うし、日本映画界に武正晴の名を不動にしたものではなかろうか…。





2014年12月23日火曜日

50歳

おかげさまで50回目の誕生日を迎えられた。

こんなに生きてられたことに感謝だ。
多くの人からメッセージをもらい、妻からは50回目だからいっぱい祝おうと何度もおめでとうを言ってもらい、たくさんの思い出を作ってもらった。
本当にありがたい。

これからが勝負の時になるのだろう。
芳雄さんが教えてくれた。
50代で何をするかで一生の仕事が決まるんだぞと。僕が京都に行くことになったときのことだ。

あれから七年が過ぎ、父も母も、芳雄さんも亡くなられたが、僕の中には様々な教えが沁みている。

これから何をしていくか、どうなっていくのか自分でも先が読めないが、がむしゃらに生きていかなければとは思っている。

芳雄さんの教えに、「考える毛虫は蝶に成れない」という言葉がある。
考えるより、目の前の葉っぱを食べて自分を育てろ、という意味なのだろう。

今ではその教えの本意を尋ねられないが、必死に葉っぱを食べ続けたいと思う。
僕の正体が蝶なのか蛾なのか、何なのか分かるまで…。




2014年12月16日火曜日

ゴーン・ガール

「ゴーン・ガール」デヴィッド・フィンチャー監督を観た。
「アルゴ」のベン・アフレックとのタッグに期待した。

妻の不可思議な疾走から物語は始まる。
争った跡や夥しい血痕から誘拐拉致、殺害もあり得ると捜査を進めるが、外部からの侵入者などに行き着かず、やがて容疑は第一発見者の夫にかけられていく。

その途端、夫には妻を殺したくなるような動機が見つかる。
夫の浮気が発覚した時点で主役はヒールと化し、社会的に追い込まれ、観客からも見放される。
さて、この先どこに感情移入すればいいのかと思っていると、疾走した妻が観客の前に現れる。

ここから怒涛の様に物語は動いていく。結末にも脚本と監督のセンスを感じられ、ありきたりではないサスペンス映画を観せられた…。

2014年12月9日火曜日

イノダコーヒ

朝から清水寺参拝。
寒いので、イノダコーヒであたたまる。

2014年12月7日日曜日

行こう!

若者よ、戦争に行くか、選挙に行くか。

僕は選挙に行くことにした…。

2014年12月5日金曜日

菅原文太

菅原文太さんが亡くなった。
色々な思い出がある。
四国に付いて行ったこともある。

でも僕は語る資格もないほどご迷惑をかけた。
その事で先輩たちにもとても嫌な思いもさせた。

僕は、息子 加織の主演映画の監督だった。
でも彼が死んだ後、編集の段階で文太さんと衝突した。

そして出て行けと怒声を浴びせられ、僕は編集室を出て行った。
映画は未だ観ていない。


その後、妻と一緒に加織の眠る太宰府を訪ね、申し訳なかったと謝った。
文太さんにもいつか謝らなければと思い続け、三回忌に会場の焼肉屋で文太さんを待った。

多くの先輩達が何しに来たのだと言わんばかりで僕と口を利くのも憚る、そんな状況の中で文太さんが現れた。

僕はタクシーから出て来た文太さんに頭を下げ許しを乞うた。
一言謝れば帰るつもりだった。

でも、文太さんは、「よく来てくれた」と僕を店の中に招待して下さった。
言われるまま席に着いたが、もちろん僕の周りに座る者など誰もなかった。

4人がけのテーブルにたった一人で座り、肉を食べた。
文太さんの優しさに涙ばかりで肉の味などわかるものではなかった。

文太さんが本当に許してくれたかどうかはわからない。
でも、僕は今でも文太さんに感謝している……。