2015年10月10日土曜日

アンビリーバボー

遅ればせながらラグビーW杯、南アフリカ戦を観ていた。
勝利の瞬間、心臓の高鳴りと観客の涙にこっちまで落涙しかけていた。

と、一本の電話が鳴った。

京都を巣立った若い俳優からだった。
詳細はまだ書けないが、主役の仕事が決まったと吉報を伝えてきた。

嬉しさがこみ上げる。
歴史は動くのだ。実感して電話を切った。

2015年10月12日 日本はアメリカに勝つ…。


プロフェッショナル研究

今期から「プロフェッショナル研究」なる授業を受け持った。
約80名が履修する就職支援の座学である。

映画や映像領域の仕事を志す者たちの半分以上は映画監督や撮影技術の仕事を目指して入学して来る。だが、その夢への到達は想像以上に険しい茨の道だ。

そんな彼らをフリーランスの助監督やフリーのアシスタントカメラマンではなく、企業に就社させる事が我々教育者側に与えられた任務の一つでもある。

矛盾を感じる。
映画が好きで、監督やカメラマンあるいは俳優を志す若きエースの将来を嘱望しながら、その一方で志を曲げ一会社員として働けと尻を叩く。
技術と知識をこれでもかと詰め込み、その才能の開花を待たずして彼らを就社し働く事こそが正しい道だと洗脳していく。

しかし見方を変えれば、映画を学ぶ誰もが映画監督や撮影カメラマンとして大成するわけではない。
ほんの一人握りの人間、技術や知識を兼ね備えたわずかな人間だけがその予備軍としてフリーランスで仕事を繋げられるのが現実だ。

学べば学ぶほど才能(感性)や力の差は歴然と出て来る。
誰かより劣る者たちは、企業の中で守られていくしかないのだ。

俳優にしたってそうだ。
誰もが主役を勝ち取れるわけではない。
演技力と容姿を兼ね備えた者たちだけが主役として選ばれるなら、どちらか欠ける者は脇役や個性派として生きるしかないわけだ。
そこには「絶対優位」という言葉が成り立つ。

「絶対優位」とは、比較すれば優劣が付けられるというものだ。
誰かより背が低い。誰かより感性が鈍い。誰かよりプレゼンテーション力が弱い。
そこには必ず個人差が引っ付いてくる。
その「絶対優位」に劣等感を抱く者は、社会(企業)に属すしかないのである。

この理屈を分かりやすく解く経済原理がある。
「比較優位」と言うものだ。

優秀な才能に恵まれたAさんという人がいる。
Aさんは、1日に『企画』を4つ上げるか、『商談』を二つまとめる事ができる。
Bさんは、1日に『企画』を一つ、あるいは『商談』を一つまとめる事ができた。
そんな二人が手を組み、金儲けを考えた。

Aさんは一日で『企画』を4つ上げ、Bさんは四日間かけて『商談』を4つまとめた。
Bさんは、Aさんと成果物を交換した。


Bさんの成果物は『商談』から『企画』になっただけで出来高は変わらない。
だが、Aさんの一日の成果物は、『商談』が4つになり、通常より二つも増えた。

Aさんは、二日目の成果物をCさんと交換する。
三日目をDさんと、四日目をEさんと。

Aさんは四日で商談が八つも増えたわけである。
仮に一つの商談の利益が百万だとすれば、いつもより八百万の利益をプラスしたことになる。

それが叶ったのは、Bさん、Cさん、Dさん、Eさんが居たからだ。
彼ら4人はその利益を分配し、さらに仕事に邁進した。

何が言いたいか。
「絶対優位」に劣等感を持つ者だって勝つ事ができるのだ。
これが企業で働く意味である…。